人前で脱ぐ。美術ヌードモデルのプライド
人前でスッポンポンになる美術モデル。
普通ならとても恥ずかしくて出来ない過酷な仕
事です。
現在、中性的な容姿を売りにヌードモデルをし
ている僕ですが、多少は慣れましたけど、今で
も羞恥心ゼロということはありません。
プライドをかなぐり捨てて裸になっている様に
みえますが、その実態はどうなのでしょうか。
裸の羞恥心の根源はどこ?
人は、なぜ裸だと恥ずかしいのか。
アダムとイブが禁断の果実を食べてから?
二人は、自分たちが裸だと気付かされてから股
間を隠す様になったとされています。
つまり、かつて人間は動物がそうであるように
性器が丸見えでも恥ずかしくなかった。それが
恥ずかしいという感情を与えられてから服とい
うアイテムを常備するようになったというのが
宗教観による「裸が恥ずかしい」の定義です。
しかし、日本は、ほんの150年前まで銭湯は
混浴でした(今でも温泉であるけど)ので、特
に裸が恥ずかしいというのは希薄でした。
それが、ペリー来航後に西洋人の目線からは、
はしたない行為とされて明治に入ると混浴禁止
令が出されるようになり現在に至っています。
そう考えると、裸への羞恥心は、西洋文明の台
頭とともに広まったと思われます。
しかし、西洋が裸に特に厳格な気持ちを持って
いたかと言うとそうでもありません。
西洋画や彫刻には、裸をモチーフにしたものも
多く存在し、決してタブーだったかといえば、
微妙な気もします。
現代では、フランスあたりではヌーディスト村
などが現れ「裸」が恥ずかしくない人達もかつ
ての日本の様に存在しています。
それは、人間も動物の様にナチュラルに在りの
ままでありたいという気持ちの表れではないで
しょうか。
人間だけが持つ裸への羞恥心。
それは「隠す」という行為から始まり、そこに
宗教が絡んで一層隠さなければいけないという
固定概念が形成されてしまった。
隠されたものは、想像力を掻き立てます。
自分の裸が見られるというのは、服という鎧を
脱がされた無防備な状態。そこに外部を恐れる
気持ちが生じます。
在りのままの自分を隠さず曝け出すのが怖い。
裸にはそういう一面を持っています。
それが羞恥心の源なのではないでしょうか。
恥ずかしくても脱げる理由
芸術の為。
な~んて言い切れると恰好いいのですが、そ
れもあるけど、お給料の良さや、誰もが簡単
に出来ない事をするという「やりがい」が、
恥ずかしさを押し殺せる理由かな。
しかし、人前で上から下まで一糸まとわぬ姿を
晒すというのは何とも言えない気分です。
特に僕は男なので、性器も丸見えです。
小さくて色白で、その上包茎。さらにアンダー
ヘア全処理ですから、一番見られたくない秘部
が見事に露わになります。
一番隠したい部分をまじまじと見つめられて平
気かと言われれば、正直恥ずかしいです。
でも、ギリシャ彫刻ぽい感じを自分なりに表現
しているので、そこが「売り」でもあるので、
恥ずかしいけど見せどこでもあります。
それでも人前で脱げるのはなぜでしょうか。
けっして、そうするのが好きな訳ではありませ
ん。むしろ、そうした気持ちとは真逆。できれ
ば見せたくない。
それじゃ、なんで人前で脱げるの?
それでは、そのあたりの所を掘り下げていって
みましょう。
裸の希少価値
近代では、人の完全なヌードを目にするという
のは、国にはよるけど難しいです。
ヌード写真やAVだって肝心な部分は隠されて
います。唯一、温泉や銭湯では、同性に限って
見ようとすれば出来るけど、そこですら隠す人
も居るし、他人の性器をマジマジと見るのは、
失礼というものです。
よって、在りのままの人間の真の姿をじっくり
と鑑賞できるのは、美術館くらいです。それも
古代ギリシャやローマの彫刻。それ以外は、絶
妙に隠されています。
それだけ人間の真の裸は希少価値があります。
そんな中、唯一人間の真の姿を観察できるのが
ヌードデッサンです。
そこでは、生きた人間の在りのままの姿が手に
取る様に目にすることができます。
最も隠されるべき性器も露わになり、その人の
全てを知ることができます。
こうした情景は、芸術の名のもとに至るところ
で行われていますが、一般的には無縁の非日常
的な世界です。
そこでモデルをする人は、裸であることが当然
の事とされますし、その姿を見つめられること
も当然とされます。
芸術と裸。そこには、非常に貴重な在りのまま
の人間の姿が確かに存在する貴重な空間です。
その「貴重な裸」を提供していると思えば、美
術モデルも自負する気持ちになれます。
ヌードモデルなりのプライド
始めの頃は、ただただ恥ずかしかったのですが
経験を積んでいくと、脱ぐこと自体は慣れてき
ます。
恥ずかしくないかと言えば嘘になりますけど、
仕事だと割り切って脱げる様になります。
「よく人前でスッポンポンになれるよな~」
確かに、自分でも不思議なくらいです。
でも、以前にも寄稿していますけど、えいっと
脱いじゃえば、後はポーズに集中するのに夢中
になるので、恥ずかしさを感じる暇がないとい
うのが実態です。
ああ、今、自分、皆の前で裸になっているんだ
なと感じてはいるけど、傍から見るほど羞恥心
は、希薄。動かない様に、最新の注意を払って
良いモデルを務めようと真面目にポーズをとり
続けているだけ。
しかし、見る側は、他人の希少な姿を容赦なく
見つめ、再現していきます。
裸は、何が恥ずかしいのか
温泉や銭湯で脱いでも、それほど恥ずかしくは
ない(僕はちょっと恥ずかしい)けど、ヌード
モデルとして脱ぐ時は、恥ずかしいものです。
更衣室や控室。或いは、パーテーションなどの
物陰で脱ぐ分にはまだ良いのですが、会場の片
隅でモデルの準備の為に服を脱ぐ。そんな瞬間
は、かなり恥ずかしいものです。
裸になり、一旦ガウンなどを羽織ってスタンバ
イ。後は、始まるとパッと裸になる。
途中の休憩でもガウンを着て、同じ様に再開す
れば、パッと裸になる。その繰り返し。
何が恥ずかしいかと言えば、周囲の人は当然で
すが服を着ています。そして、そうした人達に
囲まれて自分だけが無防備な裸になるという行
為そのものが、ある意味異常なのです。
自分だけ裸というシチュエーションは、体験し
た人でないと解らないと思います。
モデルなんだから脱ぐのは当然としても、やは
り正常な感覚を持っていれば恥ずかしいです。
服を着た「日常」の自分のイメージから、人間
本来の姿を見せるというのは、非常に生々しい
感じがします。
自分の日常の印象が無くなるのは、ちょっと怖
いものです。
服装は、自分の印象を作っている重要なアイテ
ムです。それが無い時、人は、本来の姿を見せ
ることになります。
人は誰でも隠したい部分や隠し事の一つを持っ
ています。裸になると、そうしたものが全て丸
見えになる気がします。
だから、逆に裸から服を着る時に隠すという行
為がなんだか脱ぐ以上に恥ずかしい。人間の心
理は、不思議なものです。
でもちゃんと見てほしい
モデルの大半は、意外かもしれないけどナルシ
ストではありません。え~っと思うかもしれま
せんが案外普通の人達です。
ヌードデッサンには、裸になる人が必要。
きっかけは、人それぞれだけど、誰かが脱がな
ければ始まらないのです。
脱ぎたい人。見せたい人っていうのも居るけど
羞恥心が無いと良いモデルにはなれません。
普通の人が、犠牲的献身的態度で裸に臨む時、
始めてヌードに芸術的な色香が添えられます。
裸の羞恥心はエロティシズムを持っている。
だから、良いヌードモデルの大半は、秘めた羞
恥心を持って裸になっています。
裸=エロというのは、芸術では常識。それを敢
えて芸術だと言い訳しているだけです。
なので、描き手の前に裸でポーズをとっている
時は、自分に秘められたエロスの解放という意
味もふくまれているんですね。
全て脱いだ裸の状態は、モデルの心理や健康状
態、そして先ほどのエロスのフェロモンまで観
察できてしまいます。
そこまでして自分の「素」を表現しているので
すから、描き手さんには、ちゃんと見て人間の
在りのままの姿をしっかり観察してほしいとい
うのがヌードモデルの羞恥心を犠牲にしてまで
見せる想いです。
ヌード美術モデルのプライド
プライドとは、誇り、自尊心、自負、自己愛な
どの事です。内向きな部分より、外から見てど
うなのかという気持ちがプライドです。
美術モデルは、人前で裸になるために、日頃の
ボディーケアやトレーニングを怠りません。そ
して隠すことが出来ない赤裸々な姿を披露する
為にメンタルの維持も重要です。
美術モデルは、裸になるプロ意識が高い。
脱ぐと言うのは、誰でも出来る事ですが、人前
でそれをするというのは容易い事ではありませ
ん。誰もが簡単に出来ないことをするという行
為自体にもプロ魂が宿っています。
自分の日常的な理性を内に秘め、羞恥心を押し
殺して在りのままの姿を見せる。そこには、美
術モデルとしてのプライドが存在します。
容赦なく全身の隅々に降り注ぐ視線。それに耐
えるメンタルは、一朝一夕には出来ません。
そして、自分自身の在りのままの姿に自信が無
ければ出来ないことなので、恥ずかしさと裏腹
に自己愛も形成しなくては耐えられるものでは
ありません。
そうしたことを乗り越え、その先にポーズや自
分そのものが本来持つ自然の美しさを芸術に昇
華させていくのです。
裸は生きた自然の芸術作品です。
人目にはモデルの羞恥心が気になりますが、た
だ恥ずかしさに耐えて脱いでいる訳では無いモ
デルの見えない努力を知ると、デッサンなどの
時に目にするモデルの裸が、一層有り難いもの
になるのではないでしょうか。
ヌードは、自分に自信がつく
隠すものが何もない状態で芸術の為に身を捧げ
ていると、なにか荘厳な気分になってきます。
よく隠し事のほとんどない人間関係を築くと非
常に親身な関係になるといいます。
ヌードモデルは、そうした関係を描き手の間で
無言で交わすことができます。
なにせもう隠すことが無い程露わになっている
ので、モデル本来の印象が強く残ります。
裸の付き合いなんていいますけど、ヌードモデ
ルは、それを超越した世界です。
堂々とまじまじと裸を眺める事が出来るのです
から日常では、とても出来ないことです。
裸になるモデルも、見られるのに慣れてくると
自分を集中的に好奇心旺盛に眺められる事に対
して優越感に似た気分を感じてきます。
僕の体験では、10回目くらいまでは、恥ずか
しさのほうがつ強かったのですが、それを超え
てくると、ポーズにも慣れ自分らしさを表現で
きるようになり自分の裸に自信が持てる様にな
ってきました。
中性的で女性らしさも含んだ珍しい体型の僕の
場合、注目度はとても高い気がします。
他のモデルさんの気持ちは解りませんが、異様
なまでに視線が突き刺さってくる感じです。
まるで視姦されているみたい。
小さく自慢できない包まれた性器だって、ギリ
シャ彫刻みたいと言われると複雑ですけど美し
いという褒め言葉になるので、今では自分でも
チャームポイントだと思っています。
そして、回数を重ねる毎に、ポーズも深みのあ
る自信を持ったものになってきたと褒められて
裸の自分に自信が持てる様になりました。
モデルとして裸になっている瞬間は、注目を浴
びて輝いている気がします。
着飾る物に頼らず、在りのままの自分を表現す
るようになってからは、ちょっとやそっとの事
に動じない安定感が鍛えられたと思います。
まとめ
裸は、人間にとってもっとも恥ずかしい行為の
一つです。故に、もっとも興味を引く姿でもあ
ります。
ヌードに一定の存在意義があるのは、それが普
段隠されているからです。
それを提供するのがヌードモデル。
脱ぐお仕事をする人々です。
その中でも美術ヌードモデルは、尋常じゃない
ほど観察される過酷な仕事です。
自分一人スッポンポンで衆人環視の中に置かれ
るので、そのメンタルはかなり鍛えられます。
そして、生きた芸術作品として見られるという
事に強い意義を感じます。
そこに羞恥心が無いと言えば嘘ですけど、脱ぐ
プロとしての意識の方が強いので、やんわりと
羞恥心を纏った姿になります。そして、プライ
ドを持った裸は、描く人の創作意欲を掻き立て
てていきます。
裸を芸術という世界に置いた時、そこには生き
た美術作品という最高傑作が生まれます。
美術ヌードモデルは、そうしたことに対して、
献身的な自分の存在にプライドを持って臨んで
いるのではないでしょうか。
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