ヌードの芸術性。ヌードは、アートかエロか?

美術ヌードモデルで男の娘の春海です。

僕は、仕事で裸になります。一糸まとわぬスッ
ポンポンです。むろん性器も丸見えです。

しかし、その場では、僕の裸は、日常的なもの
です。芸術という名のもとにハダカというモチ
ーフの一つに過ぎません。

では、これが媒体が違えばどうか。例えば、A
Vだったら・・・

ヌードは、アートかエロか。

長らく語られている議題に、モデル自身が、自
分をモデルにした作品を見ながらを考察してい
きたいと思います。

 

ヌードは、エッチです

中性的なヌード

山奥で撮影したヌード写真。色白で細身の女性
?の裸の後姿。中性的な容姿です。
実はこれ、僕がモデルになっています。
後姿だと女性みたいですね。
視点は、あくまで「アート」です。

苦労して人気の無い静かな山奥まで行って、彼
氏が撮影してくれました。
撮影ポイントを定めるために、裸足の足元に注
意しながら裸で沢を登りながらの撮影です。
服を脱いだ所から100mほど離れたのでドキ
ドキものでした。

アート作品のヌードだから芸術だと言えます。

でも、見る人の視点は様々です。

単に、美しいと見るか、エッチな後姿だなあと
見るかは、人それぞれ。

実際、撮影者は、その両方の視点からファイン
ダー越に僕のヌードを見ています。
彼女(僕)を野外で裸にさせることにも、ちょ
っとした興奮を覚えています。

苔むした岩や木々と沢の流れが美しい背景に色
白な裸体が、何とも言えない絶妙なコントラス
トを表現している。

そう表現すれば、アートっぽくなりますけど、
「スレンダーでいいお尻してんんな」と見てい
れば、エッチな作品になっちゃう。

結論から言えば人間のヌードは、エッチです。

これは、まぎれもない事実です。
実は、アートだ、芸術だとかは後付で、ヌード
は、誰が何と言おうとエッチなものです。

人は、脱ぐと皆エロスを纏っています。

僕自身もそれを理解したうえで脱いでいます。

まあ、男か女か、そのスタイルや顔など、好み
によって感じ方は様々ですが、脱ぐとエロスの
要素が赤裸々に見えてしまいます。
また、僕のような中性的なヌードは、独特の世
界観を持っています。

現に、男性の多くは、女性のヌードを見ると、
ごく自然に発情してしまいます(程度はあるけ
ど)でも、それは、ナチュラルな現象で、けっ
して悪いことではありません。

服というアイテムを剥ぎ取ったヌードは、エロ
スをムンムンに内包して解き放っています。
特に女性の裸は、エロそのものです。
男性の場合でも性器が見えていれば、直接的に
エロを放ってしまいます。

僕のような中性的な容姿の男性は、不思議な女
性的なエロスを醸し出しています。

と、言う具合に、人は、裸になると、内に秘め
ていたエロスを解放してしまうので、やっぱり
ヌードは、エッチだといえます。

普段隠している姿、裸は、温泉や銭湯以外の場
面では、誰が何と言おうとエッチだと言われて
もおかしくないものです。

しかし、人の裸がエッチな雰囲気じゃなくなる
場所があります。

そう。芸術の世界です。

特に、ヌードデッサンなどの創作現場は、もろ
に生の裸でもエッチに感じない特殊な環境だと
いえます。

 

ヌードデッサンは、意外とエロくない

中性的なヌード

手元の花束で絶妙に股間を隠した作品。
ツンとした儚げな胸の膨らみに、ポチッと小豆
より少し大きい乳首が、成長途中の少女の様で
中性的な女性みたいですが、僕をモデルにした
作品のひとつです。

顔は、多少アレンジされてますが、素の自分に
近い感じです。胸の膨らみも忠実です。
これは、細密に描かれた油絵です。

堂々と、表舞台に立つ作品は、こうした小細工
が必要になってしまいます。
デッサンと違い、個人的に楽しむ作品以外では
性器の取り扱いに神経質になります。

さて、芸術現場でのヌードモデルは、どういっ
たものなのでしょうか。

モデル台にオールヌードのヌードモデルが立ち
ポーズをとっている風景。
何一つ隠すことなく丸裸。
むろん性器も丸出しです。
それを平然と晒すモデル。

ヌードデッサンの経験が無い人にとっては、な
んともエロチックな感じがする情景を思い描く
と思いますが、実際にヌードデッサンに参加し
てみれば、その違いに驚きます。

確かに、モデルが脱いだ瞬間は、声を上げずと
も「おー」となりエッチな気分も芽生えます。
他人の全裸を隅々まで遠慮なく見れるヌードデ
ッサンは、独特の生々しい雰囲気です。

しかし、描き始めると、描くことに夢中になる
ので、ただの裸の肉体に過ぎません。
自然の芸術作品「ヌード」を目の前に、時間と
の勝負です。

穴のあくほどジッと裸を見つめているのにエッ
チな感情は微塵にも出てきません。
ただひたすら、自然の芸術「裸の人間」をスケ
ッチブックやカンバスに写し取るのに必死。

他人の裸をじっくり眺められるチャンスなんで
すが、実態は時間に追われながら真剣に観察す
るという状態です。

一度、彼氏を僕のヌードデッサンに参加させた
のですが、彼曰く勃起している暇もないとのこ
とです。
僕の裸に日々発情している彼でさえそうです。
写真と違って、肉体を描くのは、すごく難しい
と言っていました。

始めの、美術ヌードモデルがヌードになった瞬
間の描き手の優越感など、微塵に吹っ飛んでし
まいます。
人間の身体は、けっこう複雑です。
全て曲線で、その柔らかい肉質までも描きとろ
うとすると、二次元の世界と三次元のリアルな
裸との差に愕然としてきます。

脱ぐ美術ヌードモデルの側はどうでしょう。
こちらも、エッチな気分は、全然ありません。
ただ裸で見つめられている感じがするだけ。
状況的には視姦的なのですが、よほどそちらの
趣味の人でないと、何も感じません。
ただひたすら、ジッと動かないことに集中して
いるので考える余地は、さほどありません。

全身くまなく熱い視線を浴びているのを嫌とい
うほど感じながら裸の自分を見てもらう。

ただ在りのままに、自分のヌードを魅せる。

そしてただ裸になるという訳じゃなく、いかに
魅力的なヌードになれるかをポーズに込める。
裸という芸術作品になりきるのです。

ただ裸になるといっても、ポーズには、そのモ
デルの気質や気遣い、芸術性が滲み出ます。
モデルの裸は、生きた芸術作品なんです。

良いヌードには、モデルのオーラが漂います。

僕も、初めてヌードモデルをした時は、エッチ
な気分になるのかなと思ったけど、意外や意外
全然エッチじゃない。
性器も丸出しなのに、自分が生きた彫刻にでも
なったかのように何でも無い。
在りのままに僕のエロスがムンムンに漂うなか
でも、描き手は容赦なくそれを描き出す。
ただ動かないというのが、予想以上に辛いとい
うだけでした。

僕自身は、描く側にもいたので、両方体験して
しまいましたが、ヌードデッサンは、どちらに
してもエッチな雰囲気は、まるでありません。

生々しい裸も、ただのモチーフです。

脱ぐ側になってみて、ジ~ッと見つめられてい
ると、妙な気分にはなるのですが、裸でポーズ
を取ることに真剣そのもの。
僕のヌードをどう見られているのだろうと、気
になるけど、ポーズに集中するのが優先です。

ヌードデッサン中は、エロは何も無い。

まあ、たまにエッチな気分で僕のヌードを見て
いる人も居るでしょうけど、ほとんどの人は、
真面目に僕のヌードを描いています。

ヌードモデルを続けて、少し慣れてくると、描
き手を見る余裕も出てくるので、わざとセクシ
ーなポーズを取ってみたりしますが、やはり、
描くのに夢中なのかエッチな雰囲気にはなりま
せん。ちょっとつまんない感じです。

もし、これがアダルトビデオの撮影現場なら、
僕の裸は、エロの対象以外のなにものでもない
のに、ヌードデッサンの会場は、不思議な世界
です。

ただ、デッサンが終わって、作品を見せてもら
ったりすると、小さなアレが鮮明にそのまま描
かれたり、オッパイの膨らみが我ながらエッチ
な容姿だなあと感じ、後になって照れくさくな
ります。

感想を聞いてみた事があるのですが、僕の身体
は、ちょっとエッチでセクシーだそうです。
でも、芸術性の視点から見ると、儚げな胸の膨
らみが少女のようで初々しい感じで瑞々しい美
しい身体だそうです。
そして特にアンダーヘアーが皆無のツルツルの
股間にある色白な小さな包茎の性器は、微妙に
エッチで可愛らしいということでした。

描いている、描かれている最中は、エロと無縁
でも、描き終わった作品には、しっかりとエロ
スが滲み出ています。

そういう作品を後でじっくり見ると、芸術作品
とはいえ、エロスが漂う自分の姿を見て、ちょ
っと照れてしまいます。

 

ヌード写真は、人のエロスを容易に切り取る

中性的ヌード

山奥の廃屋の軒下。ちょっと薄暗い中でヌード
が絶妙に溶け込んでいる不思議な作品。
セクシーなポーズと、はにかんだ表情。
股間は、ぼかしていますが、一応男の子なんだ
と解る中性的な一品です。
もちろん、モデルは僕です。

光量不足で粒子感がきつかったので画像処理し
たら、まるで象牙細工みたいな繊細な肌になり
予想外に綺麗な作品になりました。

ノーメークの素の僕の姿です。

野外撮影では、人気の無い場所探しに苦労しま
すが、作品が出来ると感無量です。
そして、地面を素足で踏みしめ、そよ風を全身
の肌に感じる解放感は、何とも言えません。

人気の無い場所でも人目を気にしたり、虫よけ
や日焼け対策、終わってから足の裏をウエット
ティッシュで丁寧に拭いたりと、野外撮影は、
大変ですが僕は、好きです。

ヌードデッサンは、その特殊性から、意外とエ
ッチな空気感にならないのが解ったかと思いま
す。描くのに夢中でエッチな気分どころじゃな
いんですね。
描かれるほうも、動かないことに夢中でエッチ
な気分には、とてもなれません。

さて、次はヌード写真撮影です。

僕は、様々な手法で作品にされていますが、絵
画の場合でも先に撮影して、それをリアルに描
写されたりもするので、ヌード撮影は、意外と
経験があります。

現代は、デジカメの普及で、素人でも簡単に綺
麗なヌード写真が撮れる時代。
古人達が、懸命にヌード画を描いていたころに
くらべてヌードが氾濫しています。

今の僕の彼氏は、カメラが趣味で、よく僕のヌ
ード写真を撮ります。
そのファインダー越の目線は、はっきり言って
エッチな要素を含んでいます。
好きな彼女(女性的な容姿の僕)のヌードです
から、エッチな目線になるのは、ごく自然なこ
とです。

僕も、彼のエッチな視線は受け止めています。
なので、絵画でヌードモデルをしている時と違
って、かなりエッチな気分になります。

彼は、僕の裸に性的な感情を隠せないので、撮
影中ふと見ると、股間が膨らんでいます。
でも、それは、愛する人のヌードに自然に反応
しているので、仕方のないことです。
僕も、彼の視線を感じて、いつのまにか小さな
色白の包茎性器は、勃起はしなくてもクシャク
シャの先端が、しっとりと濡れてしまいます。

エッチな作品を目指している訳じゃないのです
が、お互い、ついそうなっちゃう。
彼氏とのヌード撮影は、プレイの延長みたいな
ものでエッチです。

僕を撮影したのは、彼だけではありません。
女性画家も撮影しています。彼女らの反応は、
どうなのでしょうか。
僕をモチーフによく創作活動をしている仲のい
い女性は、僕のヌードを写真撮影する時の心境
を次のように語っています。

デッサンや油絵の時と違って、カメラで撮影す
る時は、撮影には集中しているけど、余裕があ
るので、僕のヌードがもつエロスをもろに感じ
て少し妙な気分になるということです。

描き出すという集中力が無い場面で、人の裸を
直視するのは、生々しい生命力を感じる。
そして、その生々しさを独占して見る事に、ち
ょっと視姦しているような優越感とエッチな気
分になる。
と、言っていました。

カメラの場合、シャッターを切るだけで、モデ
ルのすべてを簡単に写し出してしまいます。

人が考える余地さえ必要の無い世界で、在りの
ままの姿を切り取られてしまう。

絵とは、一味もふた味も違う世界です。
その人のエロスも何もかも写し取ってしまう。

そんなヌード写真は、アートかエロか。

これが難しい。

見る人の主観によって、アートにもなるし、エ
ロにもなる。

一つ言えるのは、絵と違い、生々しさは、写真
のほうが濃いということです。性器を隠した作
品以外は、ぼかし加工が必須になります。

僕の場合、性器が描かれた作品は、絵も写真も
掲載時には、ぼかし加工を施します。
でも、フンワリと雰囲気は伝わります。
写実より抽象のほうがよりリアルといいます。
それは、人間の想像力です。
ぼかしてあっても想像力でリアルに見える。

僕の股間は、アンダーヘアが無いので余計にエ
ッチな雰囲気が嫌でも漂います。
写真は、そういう雰囲気さえズバッと日常から
切り取ってくれます。
そして僕の持つ中性的で独特なエロスが、否応
なしに見事に表現されてしまう。

「カシャッ」というシャツター音のたびに、僕
の全てがエロスを含めて生々しく再現される。
それが、ヌード写真の本質です。

 

官能的というヌードの表現

中性的ヌード

人が一人もいなくなり朽ち果ててて行く廃村の
シンボルツリーに佇む中性的な裸体。
自然の中にヌードが見事に溶け込んでいます。
これもモデルは、僕です。

サクサクと慎重に素足で枯葉を踏みしめ、イザ
という時には、サッっと服を着られる気構えで
ササッとポーズをとる。
野外撮影の醍醐味です。

こちらもノーメイクなので、ちょっとドキドキ
します。が、最近はメイクしている方が日常な
ので、顔出しはノーメイクのほうが安心です。

男性モデルの場合、正面の写真って、かならず
性器が映り込むので、ぼかし加工が必須。
ちっちゃくて色白で綺麗な可愛い性器ですが、
公には処理する必要があります。
せっかく綺麗な写真なのに、なんだか野暮なこ
とです。

ここまで裸は、アートかエロかについて現実的
な視点で見てきました。

裸は、見る側の気持ちで、どちらにでもなる。

それが答えな様な気がします。
アートだと思えばそうだし、エッチな気分にな
れば、それも真実。

特に異性のヌードにエロスを感じるのは、極め
て自然で健康的なことです。

僕は、エロスを超越してただ綺麗だなあと言わ
れることもありますが、正面を向いていれば、
ちゃんと可愛いエロスが存在しています。
彼を含めて同性からもエロスを感じる身体だと
言われます。

そして、どちらにしても別に悪いことではあり
ません。

古代から人間は、人の裸をモチーフにした作品
をたくさん作ってきました。

それは、人間が持つ本来の美しさの表現という
真面目な部分もありますが、僕が思うに、作り
手も見る側もぜったい「エロ」を感じているの
ではないかと思います。

官能美という言葉がありますが、そこには、人
間が持つエロティックな部分が、ふんだんに含
まれつつ、美しいアート性を醸し出していると
思います。

ヌードは、アートとエロの表裏一体。

エッチと言うと、なんだかいやらしく感じます
が官能美と聞けば、少しアートな気分にもなり
ます。

多くの男性は、女性のヌードを見れば、アート
よりもエロが自然に優先するはずです。
ですが、芸術作品やアートだと言われれば、ヌ
ードは、官能美に変身します。

僕は、裸になってヌード作品になってみて、自
分の作品を後から見て、他人がどう評価するの
か気になります。

裸である以上エロは隠せないので、官能的と言
われれば、相応の評価を得られたと満足してい
ます。

でも、エッチだと思われても、それはそれで、
良いと思っています。

アレが小さくて綺麗で可愛いと言われるのも複
雑な気持ちですが「綺麗」と言われると嬉しい
気持ちもします。

でも、ちょっと恥ずかしいというか照れる感じ
もあります。やはり、他人にヌードを見られる
のは恥ずかしいものです。
作品から漂う、モデルのそうした羞恥心も官能
美に色を
添えます。

デーンと裸です!というより、ちょっと躊躇い
を感じるオーラが漂うほうが見る側の気持ちが
変化します。

そこには、人の有りのままの姿に内包するエロ
スを含んだ「美」がアートに昇華していく様子
が見えてきます。

「ヌード」は、初めからエロいもの。でも、人
のヌードは、美しい造形物でもある。
アートでもエロでも、どちらでも違いはありま
せん。

ヌードは、官能美の世界。

そこが落としどころではないでしょうか。

 

まとめ

人前でヌードになっている僕ですが、その評価
は、とても気になります。

僕のヌード作品がアートなのかエロなのか。
気になっていました。

彼氏から見た僕のヌードは、エロです。そして
他にもエロを感じている人は、けっこういらっ
しゃいます。
でも、美しいとか綺麗という評価もあります。

人前で脱いでエッチな視点で見られるというの
は、恥ずかしい反面、在りのままを魅せている
ということに誇りを持っています。

美しいかどうかは個人差があるとしても、人は
脱げば、みなエッチな要素を含んでいます。
ヌードは、アートでも否応なしにエロを含有し
ているということです。

でも「官能美」というなんともいえない響きの
葉に救われた様な気がします。

羞恥心を抱き脱いでいるモデルのヌードに、官
能的な美しさがあるのであれば、なんだかモデ
ル冥利に尽きる。そんな気がします。

 

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