着衣とヌードの関係。裸について深く考えてみる。

女性ヌード

 

人間のもっとも自然な姿は裸です。しかし人々
の多くは日常的に服を着ていて、裸になるのは
入浴の時くらいです。そして他人の裸を見ると
いうはごく限られた空間だけです。

ゆえに人は、裸に特別な感情を抱きます。多く
の芸術作品に裸体がモチーフにされてきたのは
その表れかもしれません。

しかし裸は、普段表には現れませんが、思えば
もっとも身近な存在です。
今回は、日常的に裸を見せている美術モデルが
「裸」について深く考えてみたいと思います。

 

裸だとなぜいけないのか

1863エドゥアール・マネ 草上の昼食

エドゥアール・マネ「草上の昼食」1862~1863 オルセー美術館

マネの有名な作品。なぜだか女性だけ裸で佇む
不思議な構図の作品です。
正装した男性の傍らに裸の女性。なんともエロ
い感じが漂います。

この作品、サロンで「品が無い」と落選しちゃ
ったものなんです。なぜでしょう?
それは、現実的な女性の裸を描いたから。

えっ、だって裸婦を描いた作品は山ほどあるの
に不思議ですね。

ヴーナス誕生

アレクサンドル・カバネル「ヴーナス誕生」1863年 オルセー美術館

マネの作品より、どえらいセクシーな作品。
芸術といえばそうだけど、未成年には刺激が
強いかもしれませんね。
でもこちらは芸術作品としてはOKなんです。

同じ裸が描かれているのに何が違うのか。

これは、神話の逸話を題材にしているかどうか
ということなんです。

当時、現実的なリアルな女性の裸はまだ一般的
に認められていませんでした。
芸術としての裸婦画か、エロ目的グラビア写真
の違いみたいなものでしょうか。現実的で生々
しい裸はタブーでした。

中世の頃なら解るのですが、割と近代である1
800年代でもまだ裸はある宗教の縛りを受け
ていたんですね。

現実的な裸は性欲を呼び起こすからダメ。

でも、宗教画のヌードでもメチャエロい作品が
あるんだけど、ななんだか微妙ですよね。

 

人は裸になると印象が変わる

裸のマハと着衣のマハ

フランシスコ・デ・ゴヤ  プラド美術館

ゴヤの意欲作?先に作られたのは「裸のマハ」
です。この作品が描かれた頃は、特に現実的な
裸体は禁止だったので、後に描かれた着衣の絵
で隠していたそうです。

そういう事情で同じポーズで着衣とヌードを両
方比べられる珍しい作品になりました。

さて、こうして見ると同一人物の着衣姿と裸を
見比べることができるのですが、顔は同じなの
に服を脱ぐだけで印象が全然違います。

普段の姿と、生まれたままの露わな姿を比較し
て見ると得も言われぬ感じです。

服でも印象は様々に変えることができますけど
裸は、何も無い状態で見る者を惹きつけて離さ
ない魅力が溢れ出してきます。

上の作品を見比べても、裸の方がセクシーで美
しく圧倒的な存在感を醸し出しています。

モデルさんは、ただ服を脱いだだけなのに印象
が全然変わり、より美しく官能的な姿になって
しまう。

裸にはいったい何があるのでしょうか。

まあ、そこがヌードの魅力といえるのかもしれ
ません。

 

着衣とヌードを比べてみる

着衣とヌード

では、よりリアルに着衣とヌードの関係を僕を
実験台にして見ていきましょう。

同一人物を一度に撮れないので合成にはなりま
すけど、並べてみると面白いですね。
女性みたいに見えますが男の子(娘?)です。

一応男性なので、裸については、大事な部分を
ぼかせば問題ないかなと判断しました。
それにしても小さく可愛らしい男性器です。
メイクで化けているとはいえ、初のヌード写真
掲載です。

股間のぼけている部分、6㎝弱の小さな色白で
包茎の可愛いアレが解るでしょうか。
アンダーヘアーが無いので幼さ満点です。
これが、ボカシ処理があるとはいえ、真実の在
りのままの姿です。

僕の場合、脱ぐと一層女性的。股間のアレさえ
なければ「女」でいけそうなスタイルです。

たまにリクエストでメイクしてウイッグ被って
モデルする時がありますので、この写真って割
りとモデル時には、普通だったりします。

顔はメイクしているとはいえ、自分自身の着衣
とヌードの比較写真を作ると緊張しますね。

僕の場合、体型が中性的なので、着衣とヌード
にすると「???」アレッと感じる人もいると
思います。
ボカシ処理の部分をオープンにすれば「ああ男
の子なんだ」と納得しますが、中性的な身体と
あいまって不思議な感覚です。

左のボーイッシュコーデの服装と見比べれば、
裸になると一層不思議な女性的な色気が醸し出
されます。
腰回りが華奢で、微乳の女性と思えばそう見え
ちゃうから不思議。

プラエリアは中性的プロポーションには、絶大
な効果を発揮しています。

僕自身、普段から美術モデルとして人前で裸に
なっているけど、こうして客観的に見るのは絵
以外では初めてのことです。

なるほど比較すると印象が違いますね。

服を脱ぐだけでドキッとさせられます。
裸だとなぜか艶めかしい感じが漂います。

服のほうが様々な印象を与えるのに対してヌー
ドは、僕本来の在りのままの姿です。

本来の自然な姿がなぜ、なまめかしく感じるの
か。不思議ですね。

 

裸と猥褻(わいせつ)の関係

現代社会では、むやみやたらと裸になる訳には
いきません。

美術モデルとしてアトリエで裸になっています
が、もし不特定多数の面前で脱いだら逮捕され
ちゃいます。

作品も特に写真の場合、芸術か猥褻かの線引き
がよく話題になっています。

僕がヌードになっている時の芸術かどうかの判
断基準は、次のようになっています。

① 健全であるかどうか(芸術性など)

② 教育、学習目的(デッサンなど)

③ 猥褻目的ではない(性欲を興奮させない)

④ 良識、社会通念上問題ないか(?)

⑤ 特定の少数で密室空間である

これらの条件をクリアしていれば、人前で裸に
なっていても「芸術」の名のもとにOK

でも、③は、その目的でなくても、見る人の感
性によるので曖昧な気もします。
特にデッサンでは何も隠さないので、猥褻の一
つの基準である性器も丸出しですので、何も感
じない人の方が少ないかも。

密室であることと教育目的以外は、案外曖昧な
感じがします。以前ある描き手さんに「人は脱
げば皆エロいもの」と言われた事があるので、
「芸術」と断っているけど、現実はそうなのか
もしれません。

でも人前で脱ぐという行為には、きちんんとし
た理由づけが必要なんですね。

そして作品も色々と制約があるので、性器を巧
みに隠したりぼかしたりが必要。
そうすると・・・デッサンってすごい。ありの
ままリアルに描いているんですからね。
でも、それは猥褻じゃないんです。
う~ん。線引きがよく解りません。

ただ、なんらかの理由づけが無いと、裸=猥褻
ということになっちゃう。

なんだか裸になる商売をしている僕としては、
複雑な気分です。

 

問題なのは性器?

裸芸人が裸でお盆片手に股間を隠す。この裸は
映像的にOKみたいですね。

男性の場合股間さえ隠せば問題ない。のかな。

裸で一番問題になるのは、やはり性器。

しかし、ギリシャ彫刻は、堂々と美術館に展示
されていますので、芸術は良いのでしょうか。

絵画などでもたまに見かけますが、多くの場合
絶妙に隠したり、ややぼかした表現です。

女性の場合、よほどアンダーヘアーが少ない人
でなければ性器は見えません(ポーズによる)
が、男性の場合は、ヌードになれば嫌でも見え
ちゃいます。

ヌード作品に女性が多用される理由です。

猥褻かどうかの最大のポイントは、性器が見え
るかどうか。

そう考えると、デッサンのモデルがいかに特殊
なことなのか解るかと思います。

 

裸とナチュラル

外国には、ヌーディストビーチや村といった裸
がOKなエリアが存在します。そうした地域で
は、スッポンポンでもお咎め無しです。

こうした場所で裸で過ごす人々をヌーディスト
とかナチュラリストといいます。
なんだか特殊な人々みたいに思えますが、特に
フランスあたりでは大きなヌーディスト村があ
って全裸で過ごす人も少なくないとか。

ちょっと行ってみたい気もします。

僕は、仕事柄人前で脱ぐ意外に家では、ほぼ全
裸で過ごしているので、もしかするとナチュラ
リストといわれる人達に近いかもしれません。
「えっ!仕事も私生活もハダカ!」に詳しく書
いています。

裸族生活をして思うのは、とにかく裸は楽。
一切の衣服の締め付けがないので、とてもナチ
ュラルな心地よさです。

束縛されていない感じが心地いい。

美術モデルは、半分勢いで始めたので、脱ぎた
いとか見せたいという気持ちはありません。
むしろ、女性的な身体つきなので見せたくない
気分のほうが強かったんですよ。
今では、中性的な身体を逆に売りにしているけ
ど好奇の視線に晒されるのはしょうがないのか
なと我慢しています。

裸族生活は、美術モデルを始めた頃からです。
ボディーチェックやメンテの為に裸でいる時間
が長くなり、その延長で気が付いたら全裸のま
ま過ごすようになりました。

一番感じるのは、自然で開放的なこと。

それは、制約の裏返しなのかもしれません。
裸で初めて一日過ごした日は、ああ自分は今、
全裸なんだと事あるごとに感じましたけど、慣
れると裸の方が自然になります。
そうすると、想像以上の快適さに着衣が面倒に
思えてきます。

ただ、人前で脱ぐのは慣れたとはいえ今でも緊
張します。芸術の為と割り切らないと脱げるも
のではありません。

やっぱり人間は服を着る様になってから、裸は
特別な行為なのかもしれません。

 

まとめ

古代ギリシャでは、オリンピックの選手は裸だ
ったそうで、裸がオープンだったそうです。

現代社会では、裸は特殊な形態になり通常は人
前で見せるものではなくなりました。
ゆえに他人の裸には人をドキドキさせる要素が
強くなって、見る者を惹きつける様になってき
ました。

本来裸は、人のもっとも自然な姿なのですが、
服に隠されたことで、もっともミステリアスな
姿になったのかもしれません。
着衣とヌードを比較して見ると、そうした様子
が手に取るように解ります。

裸は、隠れた物を見たいという欲望掻き立てる
人間の本能的なものを持っているのかもしれま
せんね。

 

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