芸術とエロの狭間。西洋美術とヌード。描き手とモデルの心理

ガウンを着たモデル

中性的美術モデルをしているHarumiです。

今回は、芸術とヌードについて、人の裸が持つ
様々な意味と、その本質を掘り下げてみたいと
思います。

以前「裸婦画」について書いてみたのですが、
美術ヌードモデルというミステリアスな存在を
芸術に詳しくない方にも解りやすく、実際のヌ
ードデッサンを描く場面を描写しながら臨場感
溢れる形で、ドキュメントタッチで両者の心理
を書き綴ってみました。

 

西洋美術のヌード表現

西洋美術では、様々な裸婦画や裸の彫像が作成
されていますが、その多くは、ルネサンス期と
いう14世~16世紀頃になるまで長らくヌード
は人を惑わすものとしてタブーとされてきまし
た。

これは、別な記事でも触れましたけど、ある世
界的宗教が影響していました。
偶像崇拝はダメということで、人間のリアルな
肖像すら描けない美術暗黒時代が続きました。

ルネサンスは、古代の素晴らしい芸術や科学的
視点など、これまで封印されてきた文化に光を
あて復活させる運動でした。そこで芸術分野で
は古代ローマやギリシャの素晴らしい美術品が
見直され参考にされました。

古代ギリシャでは、人間は神の作品という事で
忠実に、その上美しく再現することで神の領域
に近づこうとしていました(と、思う)

天上界のコピーである装飾の無い人間本来の形
は美しいもの。By古代ギリシャ

そして、この時代はヌードに寛容だったことも
幸いして多くの作品が作られていました。

しかし不幸なことに人類はその後、長い時間、
まともな美術活動を封印されてしまいます。
約千年の時を経て人間をリアルに描くことが解
禁されても、ヌードについては「神」が題材で
あるという条件が付きました。
そうした宗教画には、今見てもドキッとするヌ
ード作品があるのに不思議ですね。

例え神話や宗教に関する題材であっても、人々
はヌードに並々ならぬ憧れや好奇心を持ってい
たことが伺われます。

やがて時を経て西洋画に裸婦画が氾濫する様に
なり作風も一定の制限はあるものの自由になっ
てきます。「芸術かエロか」の曖昧な線引きは
今に始まったことではありませんでした。

それにしても、芸術家達は、なぜヌードに拘っ
たのでしょうか。

そこには、自然化の造形美を学ぶという真面目
な一面も確かにありますが、ヌードを求める目
が存在したというのが偽らずの真実だったと思
います。

 

人が裸になるということ

ジョン・コリア「ゴダイヴァ夫人」

ジョン・コリア「ゴダイヴァ夫人」1898年頃

いきなり見るとドキッとする作品ですね。

この作品「ゴダイヴァ夫人」は、あの有名なチ
ョコレート「ゴディバ」の由来になったものだ
そうです。

ちょっと説明すると、ゴダイヴァ夫人の旦那は
強欲な領主で町人に重税を課していました。町
人思いの夫人は「あんた少しは税を楽にしてや
って」と頼んだところ、「オマエが裸で馬に乗
って街に出たら軽減してええで」と言われ、夫
人は実践してしまったというお話。

説明を聞けば、絵の見方も変わりますよね。

でも、予備知識なくこの作品を見たら正直、エ
ッチな感じがします。大事なとこは見事に隠さ
れているのですが、そこがまた一層妖艶な雰囲
気を醸し出しています。

絵の題材は、実際の史実ではないとのことです
が、街中を裸で馬に乗り歩いたというシチュエ
ーションは、見る人の想像を掻き立てます。

この絵を見ると、ヌードモデルをしている僕は
自分と重ね合わせて、夫人の気持ちが痛いほど
解る気がします。

服を着ていないだけで、人は強烈な印象を放つ
のが解る作品です。

ヌードには、人を惹きつける力がある。

ヌードが与えるインパクト。禁じ手かもしれな
いけど、芸術家がつい使いたくなるのも解るよ
うな気がします。

 

裸になる人。裸を描く人

マリ・バシュキルツェフ「アトリエにて」

マリ・バシュキルツェフ「アトリエにて」(1881年)

ヌードデッサン。よほど芸術好きか、美術系の
学校に通う人以外には無縁の世界ですよね。
「アトリエにて」という作品は、そうした芸術
の世界におけるモデルのポジションがよく伝わ
ってきます。

では、実際のデッサンの雰囲気を両方の視点か
ら書いてみたいと思います。まずは、描かれる
側から感じた世界です。

ここからは、ドキュメントタッチになります。

 

ヌードモデルの気持ち

ヌードデッサン当日。
僕は、早めに起きると念入りにシャワーを浴び
肌の手入れを済ませると、大きな姿見の前で、
その日のポーズをイメージする。
我ながら真面目だと思いつつ、おまじないみた
いな物で予行練習を兼ねている。

ヌードモデルをする日は、下着や靴下の跡が目
立たない様に気を遣い早めの移動をする。
会場に入ると、控室で早速服を脱ぎ薄手のガウ
ンを纏い心の準備を整え、主催者とスケジュー
ルやポーズについて打ち合わせをする。

やがてセッションの時間が近づき、ガウン1枚
で主催者と会場に入ると、ざわついていたのが
一瞬で静まり返る。いよいよだなと緊張が高ま
ってくる。と同時に、どんなモデルかなと、熱
い視線が僕に降り注がれる。

そして、ほとんどの場合、名乗りもせず軽く挨
拶するだけで時間を見計らってガウンを脱いで
モデル台に上がる。
ここで一気に世界が変わる。自分ひとり裸で放
り出された気分。異次元感覚だ。

開始から30秒~1分くらいは、ジ~ッと見つ
められます。好奇心、描くための観察、鑑賞。
ポーズの取り始めということもあり嫌でも視線
をリアルに感じる。

この瞬間だけは、約1年半モデルをしてきたけ
ど慣れるという事は無かった。元々目立ちたが
り屋じゃないし、まして人前で裸になる豪胆さ
もあった訳じゃない。こうしてモデルをしてい
る自分が、今思えば不思議なくらいだ。

しかし、平然と裸になっている様に見えるが、
実際のところは、羞恥心が芽生える前にサッと
脱いでパッとポーズを取るというのが正直なと
ころ。

しかし、ここさえクリアしてしまうと、なぜだ
か後は、なんとかなってしまう。
一点を見つめ、全身くまなくポーズを固定する
ことに集中していると、余計な事を考えたり感
じる暇もない。

生きている以上避けられない呼吸、鼓動、肢体
の微妙な揺らぎ。そうしたものを含めバランス
を取るのは想像以上に難しいものだ。
でも、そうしたことは回数を重ねていくと自然
に身に付くので、楽では無いけど慣れていく。

ヌードモデルは、誰にでも簡単には出来ない仕
事。それゆえに達成感があるのも事実。これで
もかと自分一人に関心が集中するのは、普通に
生活している時には滅多に無い事。気恥ずかし
さと同時に優越感に似た物さえ感じる。

ポーズを取り始めると、後は淡々と鉛筆の音だ
けがカサカサと響く中、色々な角度から自分の
身体の隅々まで視線が注がれるのをただジッと
成すがままに過ごす。
普通じゃ考えられない状況だけど、ここではそ
れは、当たり前のことだった。

回数を重ねるにつれ、ポーズを取り始めてしま
えば「裸」はさほど気にならない。少しでも創
作意欲を掻き立てられる様な良い自然で且つ個
性的なモチーフになりきる事に集中する。

美術モデルというのは、想像以上の体力を使う
ので、頻繁に休憩が入る。
僕は、この瞬間がなぜか恥ずかしい。ガウンを
1枚纏うだけで裸体が外界から遮断されると同
時に、今まで裸の姿を晒していたと思うと、ち
ょっと居たたまれない気持ちになる。

それを何度か繰り返す。
モデル中は集中しているから平気だけど、素に
戻ると、なんと不安なことか。

自分自身、ヌードモデルをすることは悪い事じ
ゃないし、むしろ芸術に少しでも貢献できてい
るという気持ちもある。
在りのままの容姿を褒められたり、苦心して表
現するポーズを評価されると嬉しいし、モデル
としての自信もついてくる。

でも、やっぱり心の底では恥ずかしいものだ。
ヌードモデルといえども羞恥心をゼロにすると
いうのは出来ないものだ。

脱ぐということは、その人の潜在的なエロスも
同時に解放するということ。つまり、エッチな
姿を見られるという事だ。どんなに理屈をこね
た所で現実はエッチな姿には変わりない。

そういうことも踏まえてのヌードモデル。
颯爽?と堂々と自分の全てを見せている様です
が、人間である以上、色々と見えない苦労や葛
藤があります。

 

次は、描く側からです。ある会場で知り合った
若い女性から見たヌードモデルの僕です。
若干リライトしていますが、見た側の感想をそ
のまま載せてみました。

 

ヌードを描く人の気持ち

縛られている

描き手とモデル。動けず容赦なく観察されるモ
デルに対して描き手優位と思われがちですが、
ヌードというのは見る側にも緊張感を与えてい
るようです。

では、初めてヌードデッサンをした女性の感想
を紹介したいと思います。

 

【ある女性描き手の感想を引用】

それは、友人に誘われて行ったヌードデッサン
会での事です。絵を描くこと自体は好きだし、
多少自信があったのですが、人のヌードという
のは描いたことがありませんでした。
他人のヌードをじっくり見られる事はそんなに
あることじゃないので好奇心や興味がそそった
というのも参加の動機かもしれません。

会場は割とこじんまりした感じで、20人くら
い居たでしょうか、半数以上はリピーターさん
なのか和気あいあいとした感じでした。
友人の機転でイーゼルや椅子にグルッと囲まれ
たモデル台の正面に陣取り開始を待ちます。

その日のモデルは、男性ということでした。
正直、興味は無くはないけど、できれば綺麗な
女性を描きたいのが本音でした。
ところが、部屋にガウン姿で現れたモデルを見
て一瞬(あれっ女なの?)と思いました。
男性モデルってガッチリして日焼けしたイメー
ジを勝手に想像していたので「ん?ん?」と、
戸惑ってしまいます。

そのモデルさんは、膝上くらいのガウンの下に
伸びる脚は綺麗だし、ショートカットが似合う
顔立ちは、かなり女性的です。本当に男かよと
思える雰囲気でした。
そんな困惑している自分に構わず、モデルさん
は「今日のモデルを務めさせていただきます。
宜しくお願いします。」と簡単に挨拶もそこそ
こにガウンを脱ぎ軽く畳んで置くとモデル台に
上がってポーズを取り始めました。

間髪入れず躊躇いもなく全裸になるモデルさん
に思わずビックリ。でもヌードモデルなんだか
らそれが当たり前なのか。
そして、目の前に現れた裸の姿は、確かに男性
でした。しかし想像していたアレと違って妙に
可愛らしい。それにとても女性的なボディーラ
インです。ツンと尖った小さな胸の膨らみ。ウ
エストのくびれ。どれをとっても、モデルさん
には悪いけど「男性らしさ皆無」です。
想定外な身体に、思わず、こんな中性的な感じ
の人が居るんだなと見つめてしまいました。

ちらっと周囲を見ると、みんなモデルをジッと
見ながら構図を考えている様でした。私は、初
めてという事もあり、生身のヌードモデルを目
の前にして何から手を付けてよのか解らず、と
りあえずモデルさんを観察しながら輪郭をなぞ
ってみました。

描き始めてみるとホント人って難しいと思いま
した。それに、石膏像のデッサンと違って、対
象が生身ですからどうしても遠慮する気持ちが
入ってしまいます。慣れると平気らしいのです
が、私は(申し訳ない)と心でつぶやきながら
モデルさんの身体を観察して描きました。

始めて生でヌードモデルを目の前にすると、微
動だにせずポーズを取る姿に感動し、恥ずかし
くないのかなと思わず感情移入して赤面したり
と、雑念が入り混じる中で描いていました。
そして、他人の裸をこんなにマジマジと見ちゃ
っていいのかなと不思議な感覚です。

でも、どんどん描き進んでいくと、人間の身体
って予想以上に複雑なんです。20分置きに休
憩するので思ったように描けない自分に焦りが
出てきます。ふと休憩中のモデルさんを見ると
脚のマッサージをしたり柔軟をしたりして、あ
あけっこう大変なんだなと思いました。

悪戦苦闘しながらなんとか全体的に描きだして
細かいとこを描きこんでいきます。そして、問
題の部分です。休憩中、友人に「ねえ、アレっ
て描いた方がいいの」と聞くと「見たまま描い
たほうがいい」とのこと。

女性モデルと違って、男性モデルの場合大事な
ものが丸出しじゃないですか。デッサンなんだ
から見たまま真面目に描くと言われれば、そう
なんですけど、やっぱり気が引けます。
全身を描いている時は、視界には入っていても
描くのに集中しているので妙な気分にはそれほ
どならないのですが、いざソコを描く段階にな
ると複雑な気分です。

相手(モデル)は、見られるがままにじっと動
かず私は、容赦なく彼の大事な部分を観察して
描く。幸い?元々なのか、お手入れしているの
かアンダーヘアが少なくて、しかも色白で小さ
くて幼さが残るアレは、大人の男性的な感じが
しなくて思ったより描きやすかった。
それでも、アレを描きこむと今まで女性的な身
体だった絵が一応(ごめんなさい)男になる。
描きながら自分が、すごくサディスティツクな
気分がしました。

不思議なもので、集中して描き続けていると、
モデルさんへの感傷は吹っ飛び、ただその人の
肉体を平面に描き出そうと必死になるので、モ
デルさんには悪いけど「物」生きた彫刻みたい
に思えてきました。

そして不完全ながらもどうにか仕上がった作品
を見ると、男性を描いたはずなのに、妙に女性
的な雰囲気で少しセクシーな感じ。
そして、必死に描いたつもりなのですが、本物
(モデルさん)の身体の質感には、まだまだ遠
く及ばない感じです。

初めてのヌードデッサンだったけど、他人の裸
を目の前にして描くのは、描く側もドキドキす
るものですね。自分なら出来るかななんて想像
すると絶対ムリ!そう思うとヌードモデルって
凄いなと感心してしまいました。

【ある女性描き手の感想を引用】終わり

 

描かれているとほぼ無心なので、こうして生々
しく客観的に自分の姿を見ると、ちょっと複雑
な気もします。

面白いのは、描かれる側も描く方も、制作中は
意外と淡々としていることに気づきます。
まあ、慣れてくればエッチな視線を眺められて
いるかもしれませんが、僕の経験上、描いてい
る時は集中しているので、それほどエロは感じ
られないものです。

たまに眺めるのに集中している人を見かけます
が視線でなんとなくわかっちゃいますし、後で
作品を見れば一目瞭然です。
観察と鑑賞。似ているけど見られる側としては
複雑な気分がします。

 

ヌードはエッチなのか

天使・裸です

はい。エッチです。

ヌードモデルをしている自分が言うと身もふた
も無いけど、それが現実です。

以前書いた記事にもあるけど、ある画家さんに
「脱げばみんなエッチや」と言われたことがあ
ります。どんなに清楚な女性でも、真面目そう
な美少年だろうが、脱げば見る側からすればそ
うなんです。
先に挙げた「ゴダイヴァ夫人」を見れば納得。

男性だって同じことです。特にエッチの象徴的
なシンボルがオープンなので、脱いだらどうし
ようもありません。

アダムとイブが禁断の果実をかじって以来、人
の裸はエッチな存在になってしまいました。

と、神話的に言うと綺麗な気もしますが現実的
にも裸は性の対象として見えるのが真実です。

モデルをする側としては、見る側の主観に任せ
るしかないので、僕の赤裸々な姿がエッチに見
えればそれはそれで仕方ない事ですし、それも
また事実です。

そして、作品として第三者が見たときに芸術だ
と感じるか、エッチやなと感じるかは見る人次
第です。作者が「芸術や」という高い意識で描
いたとしてもヌードという要素がある限り、そ
こにはエロスが盛り込まれてしまいます。

人本来の姿を余すことなく描けば、エロスはも
れなくついてくる真実。ヌードを真面目に描け
ば描くほどエッチな雰囲気になる。

エロティシズムを芸術に昇華させる。

これこそ古代ギリシャ芸術の神髄なのかもしれ
ません。

 

まとめ

今回は、他人の目線で自分がモデルをしている
風景を描いてみました。

自分でもわかってはいるのですが、ああ、そう
見えてるのねと、なんともいえない気分。でも
そうした事も含めても「綺麗ですね」と褒めら
れるのは悪い気がしません。この辺は、女性モ
デルみたいな心境かもしれません。

西洋画に多い官能的な作品には、間違いなく作
者のエロティシズムが込められています。そこ
には、芸術かエロかという議論をあざ笑う様に
「官能美」という世界が広がっています。

だから裸婦画を見て(エッチだな~)と感じる
のは、作者の意図だから正常な事なんです。

自分自身がそうした対象になるというのは妙な
感覚ですが、ヌードモデルをする以上は、せい
ぜい官能的に魅せられる様な素敵なモデルにな
れるように心身ともに磨きたいと思います。

 

「裸婦画は芸術か」にもヌードについての考察
が書かれていますので、ぜひこちらもご覧にな
ってください。

 

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